中村久子(1897~1968)
岐阜県高山市で長女として出生。3歳の時、2歳の時の凍傷がもとで脱疽を患う。
両手両足の切断を幾度も繰り返し、 3歳にしてだるまさんと言われる身障児になる。
7歳の時父と死別。10歳の時弟が他界。そんな中、祖母ゆきと、 母あやが彼女を支え育てた。
久子20歳の時、高山を離れ一人立ちする。見世物小屋で「だるま娘」となって我が身をさらし、
生活の糧を得る…母と再婚した父が、久子を身売りしたのです。
見世物小屋で、両手・両足のない体をさらし、 裁縫や編物を器用にやって見せる毎日。
50歳の頃より始めた、執筆・講演・施設慰問活動は、 全国の身障者に計り知れない影響を
もたらし、生きる力と希望を与えていった。
「無手無足」の自らの身体は、仏より賜ったもの…生かされていることへの喜びと、
尊さを語って歩いた。
65歳の時、厚生大臣賞を受賞。72歳、 波乱に満ちた生涯を終える。
人生の書、禅僧・関 大徹の「食えなんだら食うな」に、"中村久子"女史を
語っているところがある。
中村久子女史は四歳の時、不幸にも脱疽(だっそ)にかかり、両手両足を失い、
苦渋の"だるま" さん人生を歩んでいく。
両手は手首から、両足は第二関節から先が無く、そういう体で結婚し、子をなし、
主婦として、 母親として、家事労働をこなしながら、人々に生きることの尊さを教え、
七十幾歳の人生を全うした女性です。
仏教に深く帰依し、自分の体を恨むどころか、たとえそういう体でも、
人間に生まれたことを喜び、
「身はいやしくとも畜生に劣らんや、 家は貧しけれども、 餓鬼にはまさるべし」の、
仏教言葉を"坐右の銘"にしてる。
禅僧・関 大徹が富山の光厳寺時代、中村久子女史を講演に招いたことがある。
風呂もお手洗いも一人で入られたし、衣服をたたむのも、持参の竹べらで、
きちんと収めていたのには驚嘆した。
歯ブラシは両腕ではさんで、たんねんに磨く。顔は両腕で洗い、タオルは口と腕でしぼる。
みんな、 血の出るような鍛錬のお陰である。この人のことを思うと、
「人間の幸福とは何か」について、考え込んでしまう。
幸福は、自らが汗みどろになって掴み取るものではあるまいか。
中村久子さん41歳の時、ヘレンケラー女史に会う。
「私よりも更に厳しい生き方をし、人間業を超えた努力に生きる人がいる」と、
ヘレンケラーに感銘を与え、賞賛した。
中村久子女史が人生を全うできたのは、母親の厳しい躾があったからである。
いつまでも母親が世話をやくことは出来ない…
何れは一人で生きていかなければならない。
七歳の頃、一人で針に糸を通す訓練をさせられた…泣いても、いやがっても、
出来るようになるまでやらせられた。口で糸の端を細くしておいて、両腕に持ちかえ、
針を口にくわえて通す。
糸の結び玉は、舌の先と唇とで糸の端をくるくるとまるめて、歯と唇で糸を押さえて、
両腕で引く。 やれるようになるまで、何ヶ月も訓練を重ねたのです。
そうした努力のお陰で、日常生活に必要なほとんどのことを、一人で出来るようになった。
はた目には、 そうした厳し過ぎるまでに見えるしつけが、一人で生きていくことへの自信と、
根性を植えつけたのです。
「人の命とはつくづく不思議なもの。 確かなことは、自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず道がある。 人生に絶望なし。いかなる人生にも、決して絶望はないのだ」
幾度とない、想像を絶する苦難の人生を乗り越えて、自らの力で生き抜いてきた、
中村久子さんの言葉である。
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