「シーザーは、幸運にめぐまれていたのだと人はいう。だがこの非凡なる人物は、多くの優れた素質の持ち主であったことは確かでも、欠点がなかったわけでもなく、また、悪徳にさえむえんではなかった。しかし、それでもなお、いかなる軍隊を率いようとも勝利者になったであろうし、いかなる国に生まれようとも指導者になっていただろう」モンテスキュー
ジュリアス・シーザーはB.C100年、国家ローマに生まれ、政体をめぐる内乱を治め、帝政の基礎を築いたローマ中興の祖です。後に法の精神を著したモンテスキューをして、「いかなる国に生まれようとも指導者になっていただろう」と言わしめたシーザーのリーダーシップ、その由縁は何だったのでしょうか?
(ジュリアス・シーザーはjulius Caesarの英語読みでえあり、本来のラテン語の呼称はユリウス・カエサルですが、、ここでは広く知られたジュリアス・シーザーの呼び方で統一させていただきます。)
紀元前49年、国家ローマでは国の政体をめぐって内乱に突入します。ガリア(現フランス)の制覇を成したシーザーは、内乱に終止符を打つために乗り出します。今のスペインに発し、ギリシャ、エジプト、北アフリカ、とローマ領内を軍を率いて回ることになったのです。圧倒的なスピードで内乱を終結させたことはもちろんですが、その間に起きた2度の兵士によるストライキを彼がいかに収拾したか、エピソードを紹介しましょう。
1度目のストライキはスペイン戦線を攻略し、首都ローマに戻る途中で起きました。シーザーと共にガリア戦役の最初から従って戦ってきた第7、第8、第9、第10の4軍団のひとつである第9軍団の兵士達が即時退役を要求したのです。もちろん第9軍団の兵士達もスペインを制して、これからギリシャに向かわねばならないシーザーが、1人の兵士も退役させたくないのは知っていました。即時退役を要求として掲げはしましたが、給料の値上げを獲得するのが本意であったようです。
経済的に高い報酬を受けている者は、意識面でも高くなるものです。組織を率いる指導者は、部下たちから何の抵抗も受けないことのほうがめずらしいのです。それゆえ部下の命令拒否という問題は、起こされたかおこされないかではなく、いかにしてそれを収拾したかで評価されるべき問題とされます。
第9軍団の兵士たちに向かってシーザーは単刀直入に言い放ちます。「要求は拒否する。わたしは諸君から、愛される司令官でありたいと願っていうる。私ほど諸君の安全を気にかける者もいないし、経済的に豊かになるよう配慮も忘れない、戦士として名誉が高まるよう望んでいるものもいない。しかし、だからといって兵士たちに、なんでも勝手を許すということにはならない。いずれの人間もそれぞれの任務をまっとうしてこそ、成果も期待できる。」
しかもシーザーは、ローマ軍の軍規では最高の重罪とされている「十分の一刑」を言い渡したのでした。「十分の一刑」とは抽選で十分の一の数の兵を選び、それを残りの同僚が直接手をくだして撲殺するという、ローマ軍では最も重い刑罰です。軍規の厳しいことで知られるローマ軍団でも、よほどの重罪にしか適用されない刑罰でした。
ここにきて、幕僚たちが口々に、長年苦労を共にしてきた者たちなのだから、一時の浅慮と思って許してやって欲しいと頼みました。最高司令官は、それを聞き届けた上で口を開きました。「刑の執行は延期する。諸君の顔を次の戦地で見いだすかどうかは、諸君次第である。」次の集結地で欠けている者は1人もいなかったそうです。
シーザーはまだ先の長い戦役を見越し、最初の戦いに勝っただけで甘えを口にした部下に緊張感を取り戻すため、厳しい態度で臨んだのでした。
2度目は最後のアフリカ戦線に発つ直前に起きました。今度は4軍団内でも子飼いの中の子飼い、第10軍団がストライキに起ったのです。シーザーは言います。
「何が望みか」
兵士たちは口々に、退役させてもらいたい、と叫びました。しかし、兵士たちの目的が昇給であったのは1度目と同様です。戦地へおもむく前であるがゆえに、シーザーが自分達を必要とすることも知っていました。それゆえ退役を要求すれば、シーザーとて、一時金の支給なり給料の値上げなりで、妥協せざるをえないと踏んだのです。もともと彼らには、シーザーが戦いをつづける限り退役するつもりはなかったのです。
ところがシーザーから返ってきた答えは次のようなものでした。
「退役を許す。市民諸君、諸君の給料、その他の報酬、すべては約束どおり支払われる。ただしそれは、わたしが、わたしに従いてきてくれるの課の兵士たちと共に戦闘を終え、凱旋指揮までともに祝い終わった後で果す。諸君はその間、どこか安全な場所で待っていればよい。」
シーザーの子飼いの中の子飼いと自負していた第10軍団の兵士たちにとっては、シーザーが自分たちに「市民諸君」と呼びかけたことがすでにショックでした。それまでシーザーは「戦友諸君」と呼びかけるのが常であったのです。シーザーは自分たちを他人扱いしたと感じた彼らは、従軍拒否もなければ報酬の値上げもない気持ちになっていました。口々に「兵士にもどしてくれ」「シーザーの許で戦わせてくれ」と叫んだといわれています。
2度目のストライキが起きたときには、残す戦地も北アフリカのみとなっていました。シーザーが最初に編成した第10軍団直接の言い立てであり、この状況で「十分の一刑」を科していたならば、止める者もありません。部下たちの本音もわかっていたため、指揮官としての器の大きさを示し突き放すことが、この事態を収拾することにつながると判断したのでしょう。
このような問題は信頼が最も厚かった部下から、突きつけられる類のものであることは、現代社会でも変わらないようです。上の2つのエピソードで注目すべきことは、まったく正反対の手法をとったにもかかわらず、部下の統率という同じ結果を得たことです。
会社をはじめとするいかなる組織でも、陣頭指揮をとり、部下を統率していくためには、状況に応じて手法は変えなくてはなりません。逆に同じ手法を採用しても、同じ結果が待つとは限らないのです。
状況に応じて最良の手法を選択し、判断を下すことが重要なのです。その判断を下すのは他でもありません。これを読んでいるあなたなのです。
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